第1回 静岡浅間神社文化度造営について
 静岡浅間神社の現在の社殿は、文化元年(1804)から慶応元年(1865)にいたる約60年の歳月を費やして再建されたことは、周知のことであるが、この再建にいたる経緯と、信州諏訪の立川一門が彫刻師として再建に関わるきっかけを明らかにしたい。

 静岡浅間神社とは、神部(かんべ)神社、浅間(あさま)神社、大歳御祖(おおとしみおや)神社を総称した名称で、神部神社は駿河国総社、浅間神社は富士新宮しとて約2100年の歴史がある。この間幾度の造営を重ねてきたが、特に武家の時代には、武田、今川、徳川の各氏が度々社領の安堵を行い、手厚く庇護した。 
 徳川家康が幼少の頃、今川の人質として臨済寺(静岡市葵区大岩)に置かれ、浅間神社で元服式を行ったことは有名であるが、以来家康と神社の関係は深くなってゆく。家康の崇敬は、社殿の造営、社領の安堵、宝物の寄進を行い、天下泰平の祈願所と定めてより、歴代将軍は一貫して庇護につとめた。
 中でも三代家光は、家康に倣い厚く崇敬した。現在の社殿の規模になったのは、この頃である。家光は日光東照宮造営と同時期に浅間神社の造営を行い、極彩色の壮麗な社殿を建設したが、日光と浅間神社を同時期に造営したのは、家康と浅間神社との関係を知っていたためであって、両社を造営することによって家康の菩提を弔らうという意味があった。 しかし、この時の社殿は安永と天明の火災によって焼失したので、第11代家斉の時に再建されたのが現社殿である
 
神社にはこの文化度の造営記録として下記の古文書が残されている。

1、役所関係資料
  享和3年(1803)より慶応元年の竣工にいたるまでの、収支、造営費の記録

2、棟梁扣(ひかえ)関係資料
  各社殿の仕立、仕様や入用金の記録

3、雑資料
  材木押切帳、出面帳、申送帳及び人足の目印、法被等の記録

4、御再建場所日記
  駿府御破損方の記録した御再建場所日記。文化7、13、14、天保6、7、14は欠本
 
 この中で御再建にいたるまでの経緯については、1の資料で知ることができる。この再建に功を樹てたのは、駿府城代松平信濃守忠明と、町奉行牧野靱負の両人で、忠明は享和2年(1802)城代として着任するや、例に倣って浅間神社に参拝した。この時、日光と並び華麗で有名であった神社が粗末な仮殿であることに嘆き、牧野靱負と図って綿密な再建計画を立てている。
 当時、幕府には膨大な造営資金を捻出する余裕がなく、さらには庶民にその負担をさせるにはあまりにも忍びない。そこで注目したのは所謂「浅間金」という資金であった。この浅間金とは、駿府在藩の番頭、加番等は浅間神社に石灯篭を奉納する例であったが、元文5年(1740)よりこれを金納として保管貸付をしていた資金と、追放になった神主の配当、残材の払下げ代金を貸付していた資金のことである。この両者を合算して凡そ三万両の資金があり、これを浅間金と呼んだ。この資金をもとに再建に着手することとなったのである。しかし、直ちにこの資金に手をつけるのではなく、三万両を元金として貸付た利息を以って再建に取り掛かったことは注目される。忠明、靱負両人が老中に宛てた手紙のなかで、三万両では社殿一つも出来ない金額であるが、これを元金にして一割の利息を取り、それを再建資金に充てたい、と上申されている。着工から竣工まで64年の歳月を費やしたのは、利息によって少しずつ建設されたためである。
                        
  (つづく)                 
第2回へ